神社・仏閣

市街地徒歩めぐり東コース

三原城跡(国史跡)

 新幹線三原駅の上りホームに立ち、目を窓外に転じると目の前に見えるのが国の史跡三原城跡の天主台です。

三原城は永禄10年(一五六七年)小早川隆景により築城された城です。

隆景は、それまで本郷町にある新高山城にいましたが、交易路として多くの商船が往来する瀬戸内海を制するため、沼田川河口の小島をつないで城郭を築き、ここに移りました。

築城から約30年後の慶長年間の記録によると、当時の規模は東は湧原川から西は現在の臥竜橋付近まで約九〇〇m、南北に約七〇〇m、この中に本丸、二之丸、三之丸、そして二層、三層の隅櫓32、城門14があったといわれます。

その姿はまさに海に浮かぶ城のようであったことから別名を メ浮城ヤと呼ばれ、豊臣秀吉や徳川家康もこの地に泊まり、素晴らしい配置に感嘆したといわれています。

築城以来一度も兵火の経験を持たず、小早川氏以降福島氏、浅野氏の支城として栄えたこの三原城も、明治27年(一八九四年)、本丸を貫いて山陽本線が開通し、城郭のほとんどが壊され、今は天主台とそれをめぐる濠、市民福祉会館東の5番櫓と船入跡、ペアシティー三原西棟西隣の本丸中門跡の石垣と堀が昔のなごりをとどめているだけです。しかし新幹線上りホームのすぐ北隣にある広さ一、三六七gの天主台跡から山手を望むと主要な街道の入口を固める出城の役割を果たした寺院が要所に配置されている様が一望のもとにおさめられ、街全体が大規模な城塞であったことがしのばれます。

新幹線ロビーの壁に、かつて繁栄した三原城の見取り図が彫られています。

なお、天主台跡へは三原駅コンコース北側奥から登れます。

▼JR三原駅北口より北へ向かって濠沿いに一〇〇m程歩くと、旧山陽街道に出ます。このあたりを館町といって、かつて上級武士の屋敷があったところから名付けられたものです。

この街道を右に曲がっていくと神明大橋に出ます。この手前北側(広大附属小・中学校の石垣のところ)は城の東大手門があったところです。

そして神明大橋の上から、この和久原川をながめると「ノコギリの刃」のような石垣がみられます。これは水の勢いをゆるめ、城の石垣を守るため作られた「刎(はね)」と言う構造物です。

また神明大橋を中心に、東町・館町の旧街道一円が2月のはじめ全国から約五〇〇軒の露天商が集まりダルマ市や植木市で有名な神明市が行われるところです。

▼神明大橋より東向正面に米田山がたちふさがり、旧街道は右に折れますが、まっすぐ山際へ登っていった右手に籠恕神社があります。

籠恕神社(熊野神社)

元和5年(一六一九年)10月、和歌山新宮城主浅野氏が熊野灘の荒波にきたえられた熊野水軍をひきつれ三原城へ入城したとき、熊野水軍が崇拝していた熊野新宮をこの地にまつったものです。この人達は戦が起こったとき、水軍として参加できるように配慮され米田山の麓に住みました。

毎年の6月9日15日にわたって行われる祭礼には、当時をしのばせる特別な作法による勇壮なおみこしが見られます。


▼米田山の中腹を北に向かって細い道があります。この道が秀吉の起こした朝鮮侵略であった文禄慶長の役に向かう徳川家康が通った旧街道です。その道沿いに極楽寺があります。

極楽寺〈浄土宗〉

日照山無量寿院極楽寺は嘉禎3年(一二三七年)本郷町船木字川西の極楽谷へ、浄土宗第3祖良忠上人布教の際、阿弥陀仏を彫刻され開山されました。

それから約三五〇年後の三原城築城の時、糸碕神社裏糸崎谷に移築され、そして又、城下整備の一環として寛文年間(一六六一七二)城主浅野家の家臣によって現在地に再度移されました。

本堂(広島県重要文化財)
江戸時代中期の元文2年(一七三七年)に再建された桁行7間(13・53m)、梁行5間(13・12m)、入母屋造本瓦ぶき(背面しころぶき)の本堂です。

本堂正面入口や内部中央間近くに透彫りの欄間、来迎柱上の組物など、装飾性が加えられていますが、側廻りの柱頭に舟肘木を置き、向拝は設けず、全体に素朴な構成で統一されています。また、西日本の浄土宗の本堂では当山が唯一の例である結界そのものと格子の建具、両脇陣奥の位牌段下部の極めて珍しい形式の板戸、近世社寺建築の特質である錣葺などがあります。浄土宗の近世遺構の完備した残存例がほとんどない中で、再建に当たってそれ以前の仏堂形式を忠実に継承されている点、日本の仏教建築史上注目されている遺構であります。

山門(市重要文化財)
小早川家代々の居城であった高山城の裏門を移築したものと伝えられ、三原城築城の際、城下の町奉行所の門として使われていました。その後、幕末には三原小学校の前身である亦楽舎の門として使用された後、明治11年、この地に移されたものです。桃山時代の作と言われ「獅子と牡丹」「鳳凰と桐花」の彫刻がほどこされている蟇股のある切妻作り本瓦ぶき山門です。

本尊 阿弥陀如来 良忠上人作
額  極楽寺 学信和尚筆
欄間 本堂内陣正面に、京都の彫刻師中村頼祐作の「龍と波に遊ぶ兎」の素晴らしい欄間があります。
立像 3m余りの銅像観音立像が境内にあります。
庭園 つつじでうめられた見事な庭
墓  湯浅甚介の墓(本能寺の変の時、織田信長に加勢して討死にした人)。三千余霊の無縁仏を祀った無縁如来塔や、文豪志賀直哉の「暗夜行路」のモデルのマツさんの墓などがあります。 石碑 仏教詩人坂村真民の「二度とない人生」などの石碑 併設 達磨記念堂

松寿寺〈曹洞宗〉

万年山松寿寺は「三原に寺は数々あれど古きが一の松寿寺」と童歌に歌われていたとおり、三原城築城以前の貞治4年(一三六五年)本町成就寺の後方に創立されましたが、浅野城主3代忠真の時、妙正寺建立に伴い寛文9年(一六六九年)来迎寺があったこの地に移されました。

お寺境内には、武者小路実篤がこの寺に逗留していたとき、庭に這う松の支柱に書いた歌を始め、元厚生大臣中山マサ・元衆議院議員副議長高津正道などの有名人の歌碑があります。


山門・禅堂 三原城主が寄進したもの
庭園 画僧雪舟の作で、全国でも数少ないキリシタン灯籠もあります。
歌碑 武者小路実篤自筆

「私は松である雨がふっても風がふいても松である一本の松である間松である事に誇りを感じて最も松らしく生きようと思う私は松である」

川柳碑 岸本水府
「仕込み桶三原よいとこ冷やでよし」

本尊 釈迦牟尼仏 内に仏師  作の小像を安置する。
額  松寿寺 月舟筆

観音寺〈時宗〉

海南山道場院観音寺の本尊は、行基菩薩の作といわれる十一面観世音で、この仏像は康平の頃(一〇五八年頃)豊田郡高崎沖に出現したといわれるものでその後沼田に移し安置されていました。この仏像が弘安の頃(一二七八年一二八七年)諸国遊行をしていた一遍上人の目にとまり、小坂町水無谷に道場を建立しこの仏像を本尊にして祀られ、上人が開祖となりました。

慶長3年(一五九八年)城下のこの地に移されました。


本尊 十一面観音 行基菩薩作 厨子は尼子家臣佐世伊豆守源政勝寄進(後小早川家臣)

▼この観音寺の北隣に地蔵堂があります。

地蔵堂

これは牢人荒木助市が紀州よりもってきた本尊を安置して建てたもので、この堂内には市重要文化財の木造地蔵菩薩坐像と木造厨子があります。また、その境内には延宝3年(一六七五年)この地方に飢饉が起こり多くの人が死亡したときの供養塔があります。

▼この中腹の道に沿った寺院は、いずれも高台にあるため、古い家並みの市街地を一望することができます。またこの道は、海路と陸路を結ぶ重要な街道として古くから開けたところですが、時代とともに道は下にさがり竪町が形成され、その街道沿いに浄楽寺、専福寺があります。

浄楽寺〈浄土真宗〉

寶林山浄楽寺は、小早川隆景公侍臣 石川源左衛門の舎弟で、同じく侍臣であった石川彦左衛門が戦に倒れる者や病に苦しむ者たちを見るにつけ、世の無常を悟り出家し、専修念仏に入道。

本願寺第十二世准如上人より、法名玄恵をいただき慶長4年(一五九九年)にこの地に草庵を建てたのがはじまりで、やがて宗徒・領民たちにより寛文2年(一六六二年)本堂を再建、その後文久2年(一八六二年)まで3度の再建がされています。

第十二世慧観が中国から持ち帰ったとされる軸、置物、額等数点及び境内には、洋画家 池田快造画伯等の墓所があります。

また、市制後はじめて保育所が開設された寺院でもあります。

本尊 阿弥陀仏立像
脇壇 親鸞聖人画像・蓮如上人画像
余間 七高層画像・聖徳太子画像

専福寺〈浄土真宗〉

龍雲山専福寺は、末近四郎三郎信賀ゆかりの寺として、御調町今津野津蟹に臨済宗佛通寺派としてありましたが、広島県へ真宗が布教され北部を中心に改宗する寺院が続出したとき、この寺も慶長2年(一五九七年)に祐教が真宗に改宗して、堂宇を今の地に移しました。


本尊 阿弥陀仏立像 阿弥陀仏画像(寂如上人の裏書)
脇壇 親鸞聖人画像 蓮如上人画像
余間 聖徳太子画像 七高僧画像
経蔵 高楠順次郎博士寄進の大蔵経

▼末近四郎三郎信賀 小早川隆景の有力な武将で、豊臣秀吉の毛利攻めを備中高松城で防ぎ止め、最後は五千人の将兵を救う代わりに、高松城主清水長左衛門宗治に殉じ切腹したと伝えられる備後羽倉城主。

善教寺〈浄土真宗〉

「備後古城記」(内海本)に天文23年(一五五四年)に沼田川河口の小島城で戦いがあって、城主摂津守祐直が小早川隆景のために落城したことがしるされている。

この時、陶春賢の方についていた祐直はついに戦死し、祐直の子息、若狭守は郎従に守られて小島城を逃れ、妻の縁者を頼って但馬国の大田垣家のもとにむかいました。

小島若狭守の三男行栄は、幼名を松千代といいました。父若狭守が大和国に在住のころ誕生し、父と共に柴田勝家にしたがって、兵馬倥惣のあいだを馳駈し、おおくの武功をあげていましたが、有為転変のはげしさに会い、人生のはかなさをみるにつけ、自ずから深く悟ることがあり、永禄の末に播州亀山におもむき本徳寺の上人にたのんで得度し、法名を行圓と号しました。

行圓は衆生にまぎれてなつかしい三原にかえり、山中川畔の先祖の故地に草庵をいとなみました。

そして築城のとき、埋め立てしたばかりのこの地へ移りました。当時、この浜之町では、善教寺が最初に建てられたといわれます。この寺には 親鸞上人御筆の経文や蓮如上人自画、准如上人の手紙など貴重なものが多数残っています。

本尊 阿弥陀仏立像

▼善教寺の西隣が本陣跡

本陣跡

三原は城下であるところから、昔、旅人はこの地に泊まることを避けていましたが、不便なため善教寺の西隣にあった酒造りを業とする山科屋(現在の富田酒店付近)を本陣としました。

現在、わずかばかりの白壁と床下に人が忍びこめないように作られた密室が当時の面影をとどめているのみです。

神明市

三原城築城前から、旧暦の正月14日に、東町一帯に九つの神明をまつってこれを順に参拝すれば伊勢神宮に参拝したと同じ御利益を得るものといわれ、殿様をはじめ、芸予・安芸の島々や奥地から人が多数集まり、それが初市として1年間の相場がここで決められた程、盛んな市場まつりが行われていました。現在では全国から約500の露天商と植木市やダルマ市が軒をつらね、毎年2月の第2日曜日を含む前3日間、賑わっています。

成就寺〈臨済宗〉

神応山成就寺は、小早川8代貞平の菩提所として高山城下にあったものを天正19年(一五九一年)この地に移されました。

この寺は、小早川隆景の内室(門田御料人慈光院殿)の実父である15代正平の菩提所でもあり、本尊は小早川隆景の持念仏であった千手観音を安置しています。この寺は備後西国33カ所巡拝の10番目の寺にあたり、「よのひとの おもひのたまの かすかすも ちかひのいとに むすびとどめん」のご詠歌を梶井門跡によって書かれた額があります。

境内には淡島神社があります。この祭礼が夏祭りの最初として旧暦6月2日晩より行われ、夜店がこの日より開かれるならわしになっていました。

本尊 千手観音
紙本著色 琴江令薫像 (市重要文化財)
紙本著色 小早川正平像 (市重要文化財)

▼成就寺山門を出て、右手にある小路を通って妙正寺坂を横切り、真すぐ歩いて行くと正法寺につきます。

正法寺〈真言宗〉

亀甲山延命尊院正法寺は、長谷町鶴ヶ巣に大規模な七堂伽藍があったと伝えられていますが、天正年間築城に際し、館町に移されました。ところが福島正則の代に城の鬼門にあたる中之町に移し、侍屋敷を増築して東の街道を固め戦に備えました。

そして明治23年(一八九〇年)末寺4ヶ寺を合併して大徳院跡であった現在の地へ移転しました。この寺は城主の祈願所として、江戸時代三原4ヶ寺のひとつとして、法燈継承しています。


備後西国8番霊場
本尊 弘法大師像
護摩堂本尊 不動明王 弘法大師作
紙本墨書 大般若経六百巻(国重要文化財)

▼正法寺から東へ出て坂を登っていくと妙正寺に入ります。

妙正寺〈日蓮宗〉

無量山正寿院妙正寺は、三原城主浅野家の菩提寺として、延宝2年(一六七四年)東町の米田山の麓に建てられました。

ところが、当時の山陽道から墓が下に見えるという理由により、わずか20年ばかりで現在の本町の地に移されました。

現在この地は、当時敵が占拠した場合戦略上不利になると反対があったほど城と城下を眼下におさめられる要所で、筆影山・佐木島・小佐木島などの島々から遠く四国連山まで見える眺望絶景の地です。

このため、古くは画家の岡岷山が訪れ描いた「絹本著色登覧画図」(画図の一部は三原駅舎の陶版画となっている)や、多くの文人達が賞嘆して作った詩文を集めた「墨書寄題三原妙正寺詩文」三巻など、市重要文化財が多数残っております。

また近くは画家の東郷青児や作家の宇野千代がしばらく滞在してそれぞれの作品の素材にしています。  なお、ここ一帯を中央公園といい桜の名所として市民に親しまれています。その桜並木を約二〇〇mほど登ると展望台があります。

ここよりながめる市街地の展望は、昔と変わらぬ瀬戸内海の島々や、筆影山を背景として、山陽新幹線をはさんで、城下町の名残をとどめる古い屋並とビルの立ち並ぶ町とがうまく調和したすばらしいながめです。

江戸時代後期の著名な狂歌師で、蜀山人と号した大田南畝が、文化二年(一八〇五年)長崎へ行った帰りに妙正寺を訪れ、次の歌を詠んでいます。

メ海山も小春の空の色そへて妙なるのりのはなのふる寺ヤ

寺苑に、南畝の歌碑をはじめ、寺ゆかりの俳人の句碑等があります。

なお、寺には
本尊 釈迦多宝如来
墓  整然と並んだ三原城主浅野家歴代の墓(市史跡)
陣鐘 朝鮮式の陣鐘(市重要文化財)
三原の時の鐘として親しまれた。
紙本墨書 杏花園詠歌(市重要文化財)
紙本墨書 冬日過妙正精舎詩(市重要文化財)
紙本著色 浅野忠真像(市重要文化財)
紙本著色 登覧画図 (市重要文化財)
紺紙金泥 法華経加開結(市重要文化財)

▼境内の西隣が大島稲荷です。

大島稲荷・厳島神社

三原城は大島、小島をつないで作りましたが、その大島(天主台の位置)にすでにあった大島稲荷をお城の鎮守としました。

また、小早川隆景が九州の陣中にいたとき、毎日祈願していた厳島神社を城中広間の庭にまつっていましたが、これを福島時代にこの両社を併せてこの地に移しました。

そして境内西隅には、お城の小島にあったものを同じようにここへ移された小島稲荷や隆景の崇拝していた久井稲荷も、ここにまつってあります。

古い歴史を偲ばせる大きな樫の木の間から頼山陽の遠祖がいた頼兼城跡や梅林のあった西野が一望できる絶景の地です。

▼三原城跡より新幹線コンコースを北に出て隆景広場を左手に曲がって旧山陽街道であった本町商店街を通り、○三原東城線を横切って西町に入り二〇〇mばかり歩くと右手に大きな山門のある順勝寺があります。