小早川こばやかわ隆景たかかげは天文2年(1533)に生まれ慶長2年(1597)に亡くなりました。隆景の生きた65年間、16世紀後半は「天下統一」の夢が現実化した時代でもありました。15世紀の応仁の乱をへて日本全国に割拠した群雄が、16世紀には領土を拡大しながら「天下」をめざす。その激しい抗争のなかから抜け出てようやく天下を手中にしたのが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康でした。家康とは少し離れていますが、隆景はこの三人の「天下人」と同時代の人です。信長は隆景の1歳年下の天文3年、秀吉は天文6年、家康は天文11年に生まれています。
毛利家と小早川家
毛利家

毛利家のルーツは鎌倉幕府を築いたみなもとのよりともの重臣・大江おおえの広元ひろもとにあり、やがて西の雄・毛利氏となって中国地方発展の礎を築く───。

みなもとの頼朝よりともの側近、大江広元の4男で、鎌倉幕府でひょうじゅうしょうを務めた季光すえみつが父から相模国さがみのくに毛利荘もうりのしょうを受け継ぎ「毛利」と名乗ったのが毛利氏の最初です。
 季光は失脚しますが、「毛利」姓は季光の4男・経光つねみつに受け継がれ、新潟の越後国えちごのくに佐橋荘さはしのしょうを拠点としました。
 経光の4男・時親ときちか安芸国あきのくに吉田荘よしだしょうに移住。その曾孫元春が吉田盆地を治め、勢力を伸ばすと、大永3年(1523)に毛利元就が家督を継ぎ、中国地方制覇の道を歩み始めました。

小早川家

小早川家は本家の「沼田ぬた小早川家」、分家の「竹原小早川家」とも発展し、本家はげい諸島に進出して水軍の基礎を築く───。

 源頼朝に仕えた土肥どい実平さねひらの子、遠平とおひらが領地の相模国早河荘(現小田原市)の早川から「小早川」と名乗り、安芸国沼田荘(現三原市)の地頭となりました。
 3代目茂平しげひらが竹原まで勢力を拡大。3男・雅平が築城し「沼田小早川家」を築くと同家は芸予諸島で水軍の基礎を築きました。
 茂平の4男・政景が竹原荘を分与され「竹原小早川家」となり室町中期には本家と並ぶ勢力へ拡大します。竹原小早川家は毛利家から隆景を迎え、隆景が沼田小早川家も継いだことから両家は統一されました。

隆景の生涯
いつくしま合戦かっせん勝利のカギを握る

 隆景は12歳の時、安芸の竹原小早川家の養子となり、当主となります。やがて本家で瀬戸内海の海賊に影響力を持つ沼田小早川家も継ぎ、小早川両家を一本化します。
 隆景の力が存分に発揮されたのが、主君であったおおうちよしたかを討ったすえはるかたと元就が激突した「厳島合戦」でした。
 暴風雨の中、奇襲をかけた毛利軍に陶軍は後退し、300もの船で村上水軍が参戦したことで、海側の退路を断たれた陶氏は、大打撃を受け、晴賢は逃走して自刃。毛利軍が逆転勝利を飾りました。

コラム 陶 晴賢(すえ はるかた)

 防長両国(現在の山口県)を治めていた大内氏の重臣。主君義隆が文化にのめり込んでいくと、次第に対立するようになりました。ほんを起こして大内義隆を討ち、九州の大友義鎮(そうりん)の弟はるひでを大内義長として当主に擁立、大内家の実権を握りました。

秀吉から厚い信頼を得る

 隆元が若くして亡くなり、その子・輝元が家督を継ぎ、元就が亡くなりました。隆景は吉川・小早川の「りょうせん体制」を強固にし、輝元を支えます。
 やがて織田信長の勢力が中国地方にも及びます。総司令官・羽柴秀吉の激しい攻めに隆景は密かに和睦交渉を行いますが、本能寺の変で明智光秀が信長を討つと、秀吉は毛利氏と急いで和睦を結び、光秀討伐のため退却していきます。
 秀吉への疑心が渦巻いていた元春は、「秀吉追撃」を主張しますが、隆景は信義の大切さを説いて反対しました。
 隆景は居城を三原城に移します。その後、秀吉の信頼を得て、四国攻めで功績をあげ、伊予国(現在の愛媛県)を与えられます。
 この時、隆景は毛利家に与えられた領地を拝領する形にするなど、あくまで毛利家の一武将である立場を崩しませんでした。また伊予国統治の間も拠点は三原のままでした。隆景には子がおらず、秀吉の義理の甥である羽柴ひでとし(後のひであき)を養子に迎えました。
 文禄4年(1595)には秀吉から家康、前田利家らとともに「たいろう」の1人に任命され、秀秋に家督を譲り、慶長2年(1597)に65歳で三原城内にて亡くなりました。
 信義と知恵で「毛利家」を存続させた立役者こそ、誰あろう隆景だったのです。

隆景の主な年譜
和暦 西暦 月日 できごと
天文21533毛利元就の3男として隆景生まれる。幼名を徳寿丸。
天文13154411月隆景、竹原小早川家の家督を継ぐ。
天文14154511・30元就の正室で隆景の母、妙玖没。
天文151546元就が隠居し、長男・隆元が家督を継ぐ。
天文19155010月隆景、沼田小早川家を相続し、両家が統合される。
天文211552隆景、新高山城を修築して入城する。
天文24155510・1厳島合戦。元就が陶晴賢を討ち、隆景が戦功をあげる。
弘治3155711・25元就、隆元・元春・隆景に三子教訓状を送る。
永禄415613・26隆景、元就と隆元を新高山城に招いて歓待する。
永禄41561閏3月将軍足利義輝が毛利と尼子の講和について隆景に協力を求める。
永禄615638・4隆元没。輝元家督を継ぎ、元春と隆景が補佐する。
永禄1015671月元就末子、元総(後の小早川秀包)が生まれる。
永禄1015672月「小早川家系図」に三原城を築くとある。
元亀元15708・10織田信長、隆景に書状。織田との交渉は隆景が窓口となる。
元亀215716・14元就没。両川(吉川・小早川)体制がより強固となっていく。
天正415767・13木津川口合戦で毛利水軍が織田水軍を破り、大坂本願寺に兵糧を入れる。
天正615787・3毛利方、上月城を攻略。尼子勝久が自害する。
天正6157811・6第2次木津川口合戦で毛利水軍が織田水軍に大敗する。
天正1015826・4本能寺の変を受け、羽柴秀吉が毛利方と講和。秀吉は畿内に向かうが、隆景は追撃を控える。
天正11158311月小早川秀包・吉川広家、人質として秀吉のもとへ行く。
天正1315856・16秀吉、四国へ出兵。隆景は伊予に上陸する。
天正1315858月隆景、秀吉より伊予国35万石を拝領する。
天正1515879月隆景、伊予から筑前への加封領地替え命令を秀吉から受ける。
天正1615882月隆景、筑前名島(博多の北東)に築城開始。
天正1815903・1秀吉が小田原城征伐のため京を発ち、隆景、清州城在番を務める。
文禄元15924月秀吉、第1次朝鮮出兵(文禄の役)。隆景、第6軍大将を務める。
文禄3159411月隆景、秀吉の甥・秀俊(のちの秀秋)を養子に迎える。
文禄415958月隆景、長年の功績により従三位・権中納言、五大老に任じられる。
文禄41595隆景は家督を秀俊に譲り、三原に戻って隠居。秀俊は筑前名島城主となる。
慶長215976・12隆景没。享年65。秀俊は秀秋と改名する。
三原城の魅力と歴史

 今から450年前の永禄10年(1567)に毛利元就の三男、小早川隆景によって沼田ぬた川河口の大島と小島を石垣でつないで築かれた三原城。天正10年(1582)頃から三原城と東側の城下町の整備がすすめられました。

 当時の規模は、東はばらがわから西はりゅうばし付近まで900mと南北約700mありました。その中に本丸・二之丸・三之丸、そして二層の櫓が32、城門が14あったといわれており、満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから「うきしろ」と呼ばれました。今も三原の玄関口を「うきしろ」と呼んでいるのはこの名残りです。

 築城以来一度も兵火の経験を持たず小早川氏以降、福島氏・広島藩浅野氏の支城として栄えましたが、明治27年(1894)に本丸を貫いて山陽鉄道が開通したことで、城郭のほとんどが壊され、今はJR三原駅の北隣にある天主台とそれをめぐる濠、市民福祉会館東側の五番櫓と船入櫓、ペアシティ三原西館西隣の本丸中門跡の石垣と堀、和久原川にかかる神明大橋南側にみられる‘刎(はね)’が、当時の名残りをとどめています。

※刎(はね):水の流れをゆるめ、城を守るために作られた鋸歯状の構造物

三原にのこる2つの城跡 - 高山城跡・新高山城跡 -

沼田川をはさんで東にたかやまじょうせき、西ににいたかやまじょうせきがあります。高山城跡は、小早川氏4代茂平が築造したといわれています。天文20年(1551)に小早川隆景が第17代城主として入りましたが、次の年には新高山城に本拠を移しています。新高山城は国の史跡にもなっており、日本三大山城(岐阜城・春日山城)の一つに数えられています。しかし、慶長元年(1596)三原を隠居所と定め、三原城を修造するために新高山城が壊されました。